黒柳徹子の母はどんな人だった?冷たい人だった!?

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引用:チョッちゃんアンティークコレクション

黒柳徹子さんと言うと、玉ねぎヘアーがトレードマークの国民的なテレビタレントですよね。

またユニセフで子どもたちのために活動したり戦争体験を伝えたり平和を愛する人であることでも

よく知られていて、著書「トットちゃん」がベストセラーになるなど文学でも注目を浴びていま

す。

そんな徹子さんの母は、名を黒柳朝(くろやなぎちょう)さんと言い、

彼女も自らの半生を振り返った自伝、「チョッちゃん」を出版するエッセイストとして有名なんで

す。

そんな彼女、黒柳朝さんがどんな人なのかを徹底的に調べてみました!

黒柳徹子の母は冷たい人?

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CJによるPixabayからの画像 

冷たくて無計画な、自由人というエピソードが残っています。

黒柳徹子の母は冷たい人?自由人?

黒柳徹子は小学校時代、自身でも語っているように発達障害で授業中に大きな音を立てたり

近所のチンドン屋さんを呼ぶなどクラスで迷惑をかけていました。

そんな徹子さんに担任の先生から転校を勧められた朝さんは

徹子さんに何も言わずに転校を決めてしまいます。

母は私に「他の学校に行ってみない?」とだけ言って転校させたので、私は20歳になるまで「自分は退学になった」ということを知りませんでした。

引用:この人からエール 女優・ユニセフ親善大使 黒柳 徹子さん

発達障害だと言われていた当時の徹子さんのことを諦めていたのでしょうか?

徹子さんがユニセフの親善大使を務めることについても、

ユニセフ(国連児童基金)の親善大使を始めて、私が遠くアフリカやアジアの国々に行く時も、母からはいつも「じゃあね、行ってらっしゃい」という言葉だけでした。「そんな所に行って大丈夫なの?」とか「危ない所みたいだから、気を付けて」などと言うこともありません。〔中略〕行く前はいつも明るく「じゃあね」でしたし、96歳で亡くなる時も、最期の言葉は「じゃあね」でした。

なんか素っ気無いというか関心がないというかそんな感じの印象がありますね。

また、徹子さんは戦争の時青森に疎開しますが、「チョッちゃん物語」によると、

「汽車でたまたま乗り合わせた農家のおじさんの家に疎開することを決めた」

そうです。

親戚でもない、たまたま会っただけの人の家にお世話になることを決めるとは

なんとも自由というか、大丈夫なのかなと不安になってしまいます。

そんな彼女は実際どんな人だったのか、詳しく迫っていきます!

黒柳徹子の母と徹子の小学校時代

実は徹子への愛情に溢れていました。

転校を決めたエピソードにはこんな続きがあります。

大人になってから詳しく聞いた時、母は「子どもだもの、それくらいするだろうな、って思った。あなたが

悪いとは思わなかったわよ」と話していました。

徹子さんも転校だと言われなかったからこそ

自分が変わっていると思うことなく伸び伸びとありのままの自分でいられたと語っています。

徹子さんのありのままを大切にした教育は自身の今までの束縛された過去からなのでしょう。

青森の疎開先

1944年、時代の荒波に呑まれ黒柳一家の人生が大きく変わっていくことになります。

 

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この年には長男が敗血症で亡くなっています。

悲しみに浸る間もなく夫、黒柳守綱さんが中国戦線に出兵。

朝さん、徹子さん、朝さんの母は青森に住む農家のおじさんの家に疎開することになります。

そんな当時を黒柳朝「チョッちゃんはもうじき100歳」朝さんはこう振り返ります。

朝起きて寝るまで、子育ての大変さ、夫との深刻な葛藤・・・これでもかこれでもか
と辛いことが押しかけてきて、夢も希望もないほど悲しい日々もありました。

生きていることの喜びを心から感謝して床につく日が、どのくらいあったでしょうか。祈っても
祈っても、祈りの届かない悲しさに苦しむ日々が続いたこともあります。

しかし、朝さんはそんな状況下でも強くたくましく生きて行くのです。

また、そんな辛い中でも徹子さんのことを何より思っていました。

青森の三戸のりんご農園の小屋に疎開してからも、「それはイヤなことはいろいろありましたよ」と言う。「ただ、母が壁に花を飾ったり、東京の家から風呂敷として物を包んで持ってきたゴブラン織の布でカーテンを掛けたり、その小屋を精いっぱい、心地いい空間にしてくれました」

引用:CULTURE&LIFESTYLE FEATURE【れいわのへいわ】教えて、黒柳徹子さん。平和はなぜ大切ですか?

母、朝さんの工夫で徹子さんの疎開生活は華やかなものに変わったのです。

朝さんは異国の地においても怖気づかず行動していきます。

ドラマ「トットちゃん」で描かれたように疎開先の家族、宮川家からは疎まれていました。

宮川一家への恩返しのため、得意の洋風料理ホワイトシチューでもてなしたとき、

実は味噌汁がいいと陰湿な陰口で攻撃を受け、裁縫のスキルを生かしアップリケや刺繍を施したときには

ダサい、気に入らないとねちねち文句をつけられます。

ですが、彼女は地元の農協に就職した後、商才を発揮し行商として成功を納めるのです。

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Nattanan KanchanapratによるPixabayからの画像

食堂、行商、かつぎ屋とどんどんアイデアを出してお金を稼ぎ、とうとうご主人が出征している間

に3年で家を建ててしまいます。

すごいですね。自分で苦境をはねのける強さ、男が戦いに出る当時だからもありますが女性

のパワーは凄い!

この勇気は演劇を学ぶためニューヨーク留学を決め一人アメリカに降り立った若かりし頃の

徹子さんを彷彿とさせます。

 

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彼女の生きる強さには彼女の人生に影を落とした辛い過去が深く関わっています。

辛い過去があったからこそ、女性ということに甘えず自分で家族を支え、生きて

いく覚悟があったのです。

黒柳朝の生まれは?

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

黒柳朝(くろやなぎちょう)の生まれに迫ります。

黒柳朝のプロフィール

・「チョッちゃん」シリーズを執筆したエッセイスト

そのシリーズはテレビドラマにもなった。

・夫、黒柳守綱

著名なヴァイオリニスト。戦争時はシベリア抑留に遭う。

昭和12年から5年間、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスター。

戦後も東京交響楽団に加わり演奏活動を続ける一方、毎日音楽コンクール審査員を務めるなど

後進の育成に当たった。57年から日本音楽コンクール、海外派遣コンクールに“黒柳守綱賞”を

寄託。

・家系

元々は裕福な家庭の生まれ、文学系、芸術系に秀でていて商才もあった。

父、祖父ともに医者。父は病院を設立、祖父は文学に長ける人だった。

森鴎外との繋がり、村山塊多との繋がりもあった。

疎開した後は農協で努めた後、東京と青森をつなぐ行商として生きる。

いい家のお嬢様?チョッちゃんでブレイクした有名なエッセイスト?

彼女のプロフィールを見ると、そんな華々しいイメージを抱くでしょう。

でも実際は違います。男性社会で女性として自らの道を切り開き進んできた。

辛い過去を乗り越えてきた、強い女性なのです。そんな朝さんに迫ります。

黒柳朝の辛い過去

黒柳朝さんには辛い過去がありました。

今とは時代も違いますが結婚相手を決められなかった

由緒正しい家庭で育った彼女ですが、家庭環境はよくありませんでした。

大学進学を機に伯父夫妻の家に下宿、居候するのですが、

ドラマ「トットちゃん!」では、理解者である伯父の妻にこんな風に描かれています。

松下奈緒(朝)と八木亜希子(えつ)とのやりとりで

えつの「チョッちゃん(朝)のお父様は立派だが母を幸せにしていない」という

言葉に、朝「そう思います。」と返す。

彼女の家は封建的で父親が高圧的な家庭でした。

母は優しい人、支えではあったが助けてはくれない。

そんな家庭状況にあり、大学も結婚も決められてしまいそうな朝でしたが、

彼女は自分で人生を作っていくことを決めたのです。

黒柳朝、夫守綱との出会い

ドラマ「トットちゃん!」では、

北海道の父・周作は青年医師・児玉久興と朝を結婚させて自身の 医院を継がせるつもりでいました。

ところが朝は学生生活の中で 第九演奏会の合唱団に参加することになると、そこでコンサート マスターの

黒柳守綱と出会い、 運命の恋に落ちてしまうのです。

という風に二人の出会いが描かれています。

晩年の黒柳朝

70歳になって始めた公演旅行は七夕巡業と呼ばれています。1990年以降、日本全国での講演のほか、米国とカナダ、ロンドンで5年続け、好評を博しました。

その後2006年夏に亡くなっています。

こんな言葉を残しています。

孫黒 柳朝子95歳の言葉「やるべきだと思ったら、すぐ 始めればいいし、人生に遅いってことはないの。」

引用:門山周智とゆかりの人々

黒柳朝さんの人生はまさにこの言葉のように行動力で切り拓かれてきたものでした。

黒柳徹子さんもそんな母親の背中を見て育ってきたんですね。

まとめ

背中で見せる母という感じででした。自分で道を切り開き、女性だからと自分に制限を加えず

やりたいことのために全力なその姿勢は黒柳徹子さんにそっくりです。

愛情がないわけではなく、娘のことを思っていたからこその教育だったんですね。

コチラの記事にあるような愛情で全面的に娘を育てるタイプとは違っていますね。

浅田真央の母親の職業や生い立ちは岐阜?死因は酒からの癌だった?

時代が追いかける女、みんなのお手本黒柳徹子のお手本は

黒柳朝という一人の教養と勇気溢れる女性でした。

最後までご覧いただきありがとうございます。

もしよろしければコチラの記事もご覧ください。

黒柳徹子の身長は縮んだのか?徹底的に考察してみた!

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